Twitterからあふれるもの

7月1日の夜に突如として発生したTwitterの利用制限によって、いかにわたくしがそのサービスに依存しているかを思い知った。

別段ここでグローバル企業をも飲み込む途方もない億万長者の好き放題を批判するつもりはないし、サービスの不具合について外形的に考察してみるつもりもない。ただ、川をせき止めれば水があふれるように、Twitterという言葉の流路が遮断されてしまうと、どうしても行き場のないものがあふれてしまう。

ある哲学者は、日常的な存在とわれわれとの関係が明らかになるのはそれが壊れてもはや機能しなくなるときであると言っていた。今回の件で意外だったのはわたくしにも行き場を失った言葉が生じたことだった。もう長いことインターネットをやっているが、基本的にはいわゆるROMで、相当に受動的な参加者として振舞っていた。それはこのブログの更新頻度を見ても明らかだと思う。しかし、それでも言いたいことがまったくないというわけではなく、日々生じるすこしの言いたいことを軽く書き流せる場所としてTwitterを使っていたのだろう。

かつてTwitterミニブログサービスと呼ばれていたことを思い出す。当時は画像すら外部へのリンクを貼っていた。それがいまやSNSという名前にとって変わられ、きらびやかな画像や動画をちりばめていかにひとびとに注目されるかということに重きがおかれているけれども、日常の言葉を書くためのメディアとしての本質はそのサービスの奥底で機能していたのだと思う。ひょっとするといまでもインターネットの底流には言葉が流れているのかもしれない。

風呂に入っていたら、そんなどうでもいいことをブログに書きたくなってしまったのだった。